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 彼らは、それはいってはいけないという。それを口に出してはいけないのだ。そのことについて話してはいけないのだ。私たちは沈黙の海の中を泳ぐように忠告される。そう「おしゃべりは」「時間の無駄遣いなのだから」  もしも私たちがそういった警告をすべてむしして、口を開いたら次に彼らは「耳をふさぐ」ことを選ぶ。私たちの言葉を耳にする前から彼らはかたくなに私たちが語ろうとしていることは「無価値なのだ」と知っているようだ。私たちが何を見て、何を感じて、どう生きることを決意していたとしてもそれは彼らにとって「どうでもいい」ことなのである。  変わらないといけないのはいつだって私たちの方で、彼らの方ではないのである。  「何を知ってあの女は」と彼らは口をそろえていうだろう。  何を知ってて?  気づいたころに世界を見渡してみれば、私が知っていることがなんだったのか、私がしっていてみんなが知らないことがなんだったのか、思い当たるふしがありすぎて、悲しくなってくる。私が「沈黙の海」の中でただひたすら「感じて」いたこと。感じることに意味はなくて、本当に大切なのは、知ることなのだ。いったい私たちが「知」だと思っているもののどれだけが「本当」なのだろう?私はいつもわからないでいる。   世界史ひとつとっても、そこに描かれている世界は人間が「価値」だと感じた世界だけだ。人間が選び取った「価値ある人間」の記録だけだ。「価値のある」人間の基準はいったいどこで決まるんだろう。私は長いこと考えてきた。一人で、時には友人と。ああでもこうでもないと議論しながら、価値があるとはいったいどういうことなのだろうと考え続けてきた。   他人の尺度を信じることは随分と簡単なことのように私には思えた。雑誌に記録されるほど身体が美しかったり、政治の流れをかえるほど権力を持っていたり、世の中にあるすべての「よりよいもの」を手に入れるほどお金を持っていたり、教科書にのるほど言葉巧みに世界について語る力を持っていたり、写真とみまがうほど絵が上手だったり。